2009年1月31日に行われた岩戸寺修正鬼会を紹介しよう。
また、昭和33年(1958年)岩戸寺の旧正月7日に行なわれた修正鬼会の記録
和歌森 太郎編 くにさき −西日本民俗・文化における地位−第3章 修正鬼会(半田康夫氏)
の表記と比較しながら紹介する。

昭和33年(1958年)行事の準備と物忌
【和歌森 太郎編 くにさき −西日本民俗・文化における地位−第3章 修正鬼会 半田康夫】抜粋

行事の準備を寺方では「前行」と称する。前行はまず、カラスツイタチ(旧12月1日)から始まる。
この日、大字岩戸寺の部落民の中から選ばれてオニヨ(鬼会)に奉仕する下記の人々が寺に集合する。
(1)タイイレ 14名
岩戸寺区は作道・上園・祓・中村・山口・向鍛冶・日平の7組に分れており、各組から1挺ずつ、鬼会当日に燃やすオオダイ(大松明)を献納することになっているが、各組を代表してオオダイを献納し、且つそれをカタゲルもの2名をタイイレ(松明入れ)もしくはタイヌシ(松明主)とよぶ。
タイイレシ(衆)の一部は、後刻鬼が出場するようになると、そのカイシャク(介錯・鬼の付添役)を勤める。むかしは各組内でタイイレを出す家がきまっていたそうであるが、今では1番ダイを出す作道組の郷司家と桜井家が「株」を保有しているだけで、他の組では、その家が断絶したり、株を放棄する家があったりして、家順に交代でタイイレを出している。
(2)給仕人 2名
鬼会当日の「盃の儀」の時に、裃・袴を着用して、僧侶やタイイレシ等に給仕する役である。区内から適当な人を選出する。
(3)ハヤシカタ
太鼓・笛・ドビヨウシ(鉦)各1名。これも区内から適宜選出する。
(4)トシノカンジョウ 1名

「年男」「年行事」「堂役」などともよばれ、タイイレシや給仕人・ハヤシカタ等を指揮監督し、村方の経費の勘定について責任を負う。とくに阿闍梨ダイを所持することを許されて、院主や役僧の先導をつとめる。組長の中から選ばれることになっており、岩戸寺区内を上・下に2分し、交互に出る。

平成21年(2009年)行事の様子

人手の不足からか、今年のタイイレは8名となっている。
オオダイの本数も昭和33年当時7本だったのが4本に成っている。

給仕人や囃子方(ハヤシカタ)は昭和33年当時の人数そのままである。
ただ、人選の仕組み等は確認していない。

給仕人は、高校生か?童顔の可愛い少年だった。

それぞれの役割は、左記に同じ。



タイイレと給仕人(2009年1月岩戸寺)
昭和33年には14名だったタイイレは、
平成21年は8名。
   
今は、会社や役所勤めなど農業以外で生活する為、昔のような事は出来ない。寺にこもって毎日垢離をとる事や厳しく慎しむ事は遠い昔の事となった様だ。
こうした役割を院主の前で正式に決定したのち、役付の村人たちは、境内にあるコーリトリブチ(垢離とり淵)で院主とともに身を清め、松明用の木を伐り、割っておく。むかしは、この日から寺に籠もって毎日垢離をとり精進をする熱心な人もあり、少なくともオニヨ前1週間は、役付は寺に籠もらねばならなかった。

年の夜に寺に集まり、除夜の鐘は3番のタイイレが撞く。そしてそのまま寺に籠もって寺の賄を受け、毎日垢離をとったということである。
今では寺にこもる人は少なくなった。しかし、自宅にいても、この1週間は、水垢離をとり、自室に家人を入れず、女の炊いた飯や他家の物を食べず、肥(コエ)にさわることや殺生・肉食・女色などを避けて専ら慎しむ人は、かなり多い。そうしないと松明の火で大やけどをすると信じられているからである。寺方でもカラスツイタチから小僧に鬼会のお経の練習を始めさせたという。

オニヨの前日、すなわち旧正月6日に、タイイレシ14名は寺でトシノカンジョウの指揮監督下に、オニヨ当日使用する下記の諸道具を作製し、また餅もついて、 これらを主会場である講堂内に飾りつける。
鬼面のケショウ(化粧)は主としてトシノカンジョウのしごとである。 この日には村方の世話人(組長)や人夫も参集する。昼食には必ず雑炊が出る。
当日までの準備は昔と変わらず、多くの村人の奉仕を必要とする。諸道具の作成や松明の作りや講堂内の準備には想像以上の村人のエネルギーが注がれていると思われる。また、本堂の片付け、コオリトリブチの掃除や講堂へ続く参道の整備等々多くの奉仕作業があっての今日と思われる。



    コオリトリブチ(岩戸寺)

昭和33年には薄氷を割ってとあるが、平成21年の今日は、地球温暖化の影響か、氷の張るほどの寒さは無い。


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